ニート問題やネットにおける様々なトラブル、人間関係のいざこざなど、昔にくらべ様々な媒体から情報が入ってくるせいで、現代が抱える諸問題が悪質になっている錯覚に陥ることがあります。果たしてそうでしょうか? 100年前だって1000年前だって、現代と同じような社会問題はあったのではないでしょうか? そこで今回は現代が抱える社会問題や嗜好が戦国時代にもあったのではないか? という仮説のもと、近似する人物を探してみました。
ニート問題
信長の父・信秀の九男(十男とも)、つまり信長の弟である信照。一説には、ほとんど城にこもりっぱなしだったという、今でいうニート。さらに馬1頭しか持っていないのに周囲に「馬50頭持ってるぜ」と虚勢も張っていたそう。この嘘を本当っぽく見せるため、下々に1日中その馬を洗わせて、「信照は1日中、馬をとっかえひっかえ洗わなければいけないほど馬を抱えているんだなぁ」というブラフをかける嘘松要素も持った人物でした。
すぐキレる子問題
織田信長の家臣で森長可という人物がいました。槍使いの名手で「鬼武蔵」という異名をとるほどの勇将である一方、ルール破りは日常茶飯事の傍若無人の武将でもあったようです。奉公人に暴言を吐いたり些細なことで殺害したりするキレやすい子だったようで、ある時、関所で下馬をするように言われると「なんで貴様らの前で下馬せにゃならんのだ!」とブチギレ。関守を斬殺したそうです。理不尽。
千葉邦胤という当主がいました。時は新年会、満座の席で配膳役を務めていた近習・桑田万五郎という青年が、ついおならをしてしまったそう。しかも2発。これに対し邦胤は当主然とした広い心で許したわけではなく、よせばいいのにブチギレ。刀まで持ち出す始末。しかしその場は諫められ刃傷沙汰にはならなかったそうです。
ところが満座で恥をかかされたと逆恨みした万五郎は、寝所に忍び込み邦胤を暗殺。結果当主を失った千葉家はやがて北条家に吸収。おならだけに空気を読まずキレて家を滅ぼし、一方、おならごときでキレて暗殺……おならひとつで運命が左右するとは怖いものです。あ、おなら2発でしたね。
有事にうっかり不在問題
災害や国際的有事の際にうっかりゴルフに出かけていたり旅行に行って帰ってこれなかったりして、非難を浴びる大臣がいますが。戦国時代もそんな人はいます。
若い頃の武者修行で腕を磨いた薄田兼相という武将がいました。大阪冬の陣で豊臣方につき、砦を守る任に。相対す徳川方の敵を見るや侮り、うっかり「遊郭行こうぜぇ」となり、遊びに出かけてしまい宿泊、砦を留守にしてしまいました。その間、徳川方は攻め入り、守将不在で砦はパニック。知らせを聞いた兼相はすぐに戻りますが時すでに遅し。砦は陥落。撤退を余儀なくされました。
その後の夏の陣では、汚名をそそぐべく命の限り戦い、最期は素手で応戦し戦死したと言われています。
BL・腐兄問題
佐竹義重という戦国きっての猛将がいました。彼は戦場で怖気ずく兵の士気を上げるため、大将にもかかわらず先陣を切り、一息に七つの首をあげたといい、このことから「鬼義重」とあだ名されるほど恐れられていました。そんな義重が戦場で敵対する大将・蘆名盛隆に出会いこう思ったそう。「めっちゃきれいな子やん……」。そう盛隆は美少年だったんだとか。
一目惚れした義重は盛隆に恋文攻勢。今でいう鬼LINE。盛隆もまんざらではなかったようで、一説には戦時にもかかわらず、ごにょごにょがあったとかなかったとか。結果、二人の関係のおかげで戦は和睦に。
その後、2人の関係は分かりませんが、盛隆は痴情のもつれで大庭三左衛門に斬殺されるという悲劇につながります。
とはいえ、この時代はボーイズラブやら男色やらは普通なことで、武田信玄も家臣にたしなめられたりお相手にジェラシーをふんだんに綴った手紙を送ったりしています。
さて、いかがだったでしょうか?
今回ピックアップしませんでしたが、他にも直江兼続の直江状による「すぐ論破したがる問題」や伊達政宗の「中二病問題」など、まだまだあります。
さりとて取り上げた人物がいたからこそ、魅力あふれる戦国時代が造り上げられてきたのも事実。「昔は良かった」などと嘆くより、今も昔も文明が発展しても人間て変わんないねと思った方が、味わいが出るのではないでしょうか。