高校までの野球の背番号といえば『1』がエースピッチャー。プロのエースは『11』や『18』。という印象があります。またレギュラー野手は一桁、キャッチャーは『22』『27』。サウスポーは『34』などぼんやりとしたパブリックイメージがありますが、そんな中でも既存の印象を覆し、その背番号の数字にこだわり、その番号をリクエストして入団する選手もいます。今回は背番号をこだわり選んだ選手をエピソードとともに紹介します。
上原浩治『19』
大坂体育大学を経て1998年ドラフト1位で巨人に入団、背番号は『19』。ルーキーイヤーに投手部門四冠に輝き長らくエースとしてマウンドを守り、後にメジャーリーグに移籍。18年、巨人に戻った際は『11』、翌年『19』に変更。19年、シーズン半ばで引退を表明しましたが、その現役生活のほとんどを背番号
『19』とともに送りました。これは高校卒業後、1年浪人して大学に入学しますがこの時の経験から「浪人をしていた19歳、その年を忘れないように。野球ができない19歳の時が一番苦しかった」と言い、この番号を見れば前向きになれるから『19』にこだわりを持っていると語っています。
松井裕樹『1』
2013年ドラフト1位で楽天に入団した松井投手。サウスポーから繰り出される150キロを超える速球とキレのあるスライダーを武器に抑えの切り札として活躍。日本代表でもストッパーを務める日本屈指の投手。そんな彼の背番号は『1』。これは契約時に自分で選んだそう。これまでNPBで『1』を付け活躍した投手はあまりいません。松井投手は投手だからこの番号という覚えられ方ではなく、逆に『1』は松井というイメージを作りたいんだとか。また入団会見の際には、高校時代から付けてきた番号なのでこの背番号でスタートしたいという意味で選んだと語っています。
川崎宗則『52』
1999年ソフトバンク(当時ダイエー)ホークスに入団、背番号は『52』。レギュラー内野手を務め、コンスタントに3割を打つリードオフマンとして活躍。海外移籍後はチームのムードメーカーとして人気者でした。
ドラフトでは下位の4位指名で入団しているので背番号は本人の意思で選んだものではないと思われます。そんな彼はイチローの後を追いかけるためマリナーズ移籍を熱望したほどの自他ともに認めるイチローマニア。
『52』も「イチロー選手の後を追う」という意味でこだわりを持ち、選手時代の長くこの番号を付けていました。マリナーズに移籍した際は『61』を背負いますがこれについて「逆から読むとイチローだからいい番号」と喜んでいました。
余談ですがイチローの『51』は元広島の前田智徳氏が新人時代に付けていたからと言われていますがどうやらガセ。川崎氏同様、下位指名なため希望が通るはずもなく、球団から与えられた番号だったんだとか。3年目にブレークし若い番号への変更を打診されたそうですが「せっかく背番号とともに覚えてもらえるようになったのだから」と『51』のままで通したんだそうです。
佐々木主浩『22』
横浜のレジェンドストッパー。NPB史上最高のクローザーとも言われる大魔神・佐々木氏。NPB時代から海外移籍し再び横浜に戻り引退するまで一貫して『22』を背負いました。佐々木氏の人生は“2”に縁が深く、誕生日が2月22日午後2時22分。大学時代、プロ入りに前向きではなかった佐々木氏に横浜の前身、大洋のスカウトが提示した背番号が22。長女が生まれた時刻も午前2時22分。こういったことから背番号22に強いこだわりをもっていたようです。
清宮幸太郎『21』
高校通算、史上最多の111本塁打を放ち17年のドラフト1位で日ハムに入団した清宮選手。交流戦では今シーズン初スタメンを果たし先制点を稼ぎ出す活躍。まだまだ伸びしろがある期待のスラッガーです。そんな彼の背番号は『21』。日ハムの21といえば武田久氏、西崎幸広氏、超レジェンドでは土橋正幸氏と投手が背負ったナンバー。清宮選手がこの背番号を選んだ理由は、空き番号のうち有名打者が付けていたものは、誰かの後追いはしたくないという意味で外れ、野手のイメージが無い『21』を選択。またブラックジャックで一番強い番号だからという理由もあるそうです。球団側としては1950年代から70年代にかけてメジャーのパイレーツで活躍したロベルト・クレメンテが21を付けておりあやかるという意味もあるようです。
「背番号が選手を育てる」という迷信があるように、球団側はさらなる活躍を期待し伸び盛りの選手に相応しい番号を打診します。しかし選手の中には「選手が背番号を育てる」という意識がある者もいて重い番号だろうが継続する者も少なくありません。過去その番号で活躍した選手がいなければ【番号=自分】という貴重な存在になれるからという理由のようです。