出典 http://www.nhk.or.jp/naotora/
今年の大河ドラマ『おんな城主直虎』。男どもが血で血を洗う戦国時代を女性の「直虎」が城主となって、荒々しい時代を生き抜くストーリー。
当時、城主や戦場で戦うのは男の仕事ですが、中には直虎のように城を守ったり、鎧兜に身を包み戦った女武将もいました。そこで今回は直虎のように女だてらに戦国を武器を持ち戦った女性を紹介します。
のぼうの城で榮倉奈々が演じた甲斐姫
現在の埼玉県行田市にあった忍城の城主・成田氏長の親戚、長親の娘・甲斐姫。東国随一の美女と言われながら、武芸にも優れていたそうです。
豊臣秀吉が天下統一の総仕上げに北条の小田原城攻めを行う際、北条勢の忍城も石田三成に攻められました。石田2万の兵に対し成田は3000人の寡兵で籠城。
甲斐姫は鎧兜を身に着け、200余騎を引き連れ出陣、多くの敵を討ち取り奮戦。結局、北条は降伏しますが、忍城は甲斐姫らの活躍もあり守り抜きました。その後、甲斐姫は秀吉の側室になったといいます。
真田丸では吉田羊が演じた小松姫
徳川四天王・本多忠勝の娘で真田信之の妻・小松姫。夫が朝鮮出兵の際には城を守るなど重責を担っていました。1600年、夫信之と義父昌幸・義弟信繁で袂を分った関ケ原の合戦。この大戦を前に昌幸・信繁親子が居城に戻る際、昌幸が留守の城に立ち寄り孫の顔を見ていこうとしました。
しかし、留守を預かっていた小松姫は、自身も武装し兵を挙げ入城を拒否。このとき昌幸は、うまくいけば城を乗っ取ろうとしていたと考えていたそうですが、小松姫はそれも見越して拒んだんだとか。この勇ましい姿に昌幸らは感心したそうです。
権謀術数で城を守った策士・妙林尼
大友宗麟配下、鶴崎城を守る吉岡統増の母が妙林尼。1586年、九州統一を目論む島津勢が、鶴崎城を攻めてきました。
このとき、統増は宗麟の下におり不在、代わって妙林尼が指揮を執ることに。しかし若い兵は統増が連れて行ってしまい城内には年老いた兵や女ばかり…。失陥の危機に妙林尼は急いで策をたて、砦を築いたり落とし穴を掘ったり鉄砲の撃ち方を教えたり準備を整えました。
島津勢攻城隊が攻撃を開始すると、妙林尼の奇策が次々とハマり、16度の猛攻を仕掛けますが、ついに落とすことを断念し和睦を提案。妙林尼は味方全員の命の保証と引き換えに開城を飲みました。この際、敵味方一緒に盛大な宴会が開かれたそうです。
…しかしここで終わらないところが策士・妙林尼。島津本隊から撤退命令が下った攻城隊。この報せを知った妙林尼は正に妙案が閃き攻城隊指揮官に「島津隊を手厚くもてなしてしまったので、このまま大友にはいられない。
島津領に連れて行ってほしい」と願い出、再び手厚く酒宴。しこたま酒を飲ませた翌日、「後から追いかける」と伝え攻城隊を送り出しました。そしてここぞとばかりに千鳥足の攻城隊に奇襲攻撃。殲滅に成功し63の首をあげたと言われています。
戦国時代じゃないけど女武将最強 巴御前
平安末期の源平合戦のころ。木曽義仲の妾と言われる巴御前。義仲とは幼少の頃から武芸の稽古を共にし、その才を認められ戦場にも駆り出されることも。平氏との戦いで大功を上げた義仲でしたが、事後の失敗などで立場が危うくなり、ついには源義経との宇治川の戦いに発展。
追い詰められ最後の5騎の中に巴御前も付き従い、敵を馬から引きずり落とし首を斬るなど抵抗。武者を両脇に抱え首をへし折ったとも言われています。
巴御前と双璧をなす鎌倉時代の女傑 板額御前
板額御前は現在の新潟、鳥坂城にあり、兄をはじめとする親族の鎌倉幕府打倒計画に呼応し挙兵。反乱軍として奮戦。弓の使い手だったと言われます。
しかし幕府軍の矢が両足に当たり捕虜に。鎌倉幕府二代将軍・源頼家の前に引き出されますが、全く臆せず驚かせたそう。この堂々とした態度に感銘を受けた源側の重臣が妻として迎えたと伝わっています。一説には身長188センチあったともいわれています。
今回あげた女武将たちのほとんどが武芸とともに美貌も兼ね備えていたとの伝説も残っています。
当時の時代観だったら、まさに心も心臓も射貫く無双の存在だったのかもしれませんね。