刑務所はいつの時代も厳重で厳戒。おいそれと脱獄出来ないよう、野心をへし折る高い壁に看守のスキのない目。そう簡単に抜け出せるものではありません。しかし、中には難攻不落と言われる刑務所からも逃げおおせた脱獄犯がいます。そこで今回は、脱獄犯の個性に焦点をあて、紹介したいと思います。
ばら撒き脱獄 麻薬王・グスマン
記憶に新しい脱獄といえばメキシコの麻薬王・ホアキン・グスマン。麻薬取引で財を成し、その資産1000億円ともいわれ、米フォーブス誌にも掲載されたことのある人物。1度目の脱獄は2001年、約80人の看守を買収し、洗濯物を入れるカートに潜み脱出。正面玄関から堂々と出て行ったともいわれています。
ちなみにこのときの脱獄に使った費用は3億円。そして2度目の脱獄は2015年。グスマンが収監されている刑務所外の建物の地面に穴を掘り、グスマンの独房までなんと1.5キロのトンネルを作り、まんまと逃げおおせました。このときの費用は60億円。しかしすぐに逮捕されました。ところがこのグスマン、地元では貧困層に仕事を与えたり、災害時に政府より早く援助活動をしたりしていたため、英雄扱いされており、逮捕時にデモが起こったり、「脱獄がんばれ」と書かれたTシャツが売り出されたりしたそうです。
根性脱獄 白鳥由栄・西川寅吉
日本の脱獄王といえば白鳥と西川。いずれもド根性で脱獄を試みました。
・白鳥由栄…4度脱獄に成功した「昭和の脱獄王」の異名をもつ人物。1度目は1936年、青森刑務所。落ちていた針金一本を鍵型に曲げ独房の扉などを開け脱出。2度目は42年、秋田刑務所、くぎをノコギリ状に加工し天窓の枠を切り落とし脱出。3度目は44年、難攻不落といわれた網走刑務所。
毎日出される食事の味噌汁を口に含み、窓の鉄枠に吹きかけ塩分で腐食させました。傷んだ鉄枠を外し、自身の肩や腕の関節を外し小窓から脱出しました。そして最後は47年、札幌刑務所。金属片で床板を切断し、食器で床下の土を掘りトンネルを作り脱出しました。彼が脱走する理由は、刑務所内での劣悪な待遇に抗議の意味がありましたが、脱出の際、誰も傷つけないないという信条があったようです。
・西川寅吉…1854年生まれの西川。脱獄・入獄を繰り返した人物で、あまりに脱獄するため足に4キロ近いの鉄球を付けられたこともあったそうです。そんな彼はあるエピソードから「五寸釘の寅吉」の異名が付きました。
(以下、痛い話なので苦手な方は、次の項までスキップしてください)
とある監獄から逃走後、質店に盗みに入ると追手が。建物2階から飛び降りた際、運悪く5寸(15センチほど)の釘が刺さった板の上に着地。捕まるわけにいかない西川はそのまま逃走。距離にして10キロ逃げた後、釘板を抜き治療。静養している間に御用になりました。これが新聞などに取り上げられ上記の異名が付いたといいます。
そんな西川ですが、網走刑務所で服役していたこともあり、博物館網走監獄にはマネキンがあったりします。
さて、白鳥、西川ともに最後の服役では、真面目に刑に服し看守の信頼を集め、模範囚となり仮出所するに至っています。
IQ脱獄 フランク・モリス
アメリカの犯罪者から「ザ・ロック」と呼ばれた、アルカトラズ連邦刑務所。絶海の孤島にあり、まさに難攻不落。36人が脱出を試みますが全てすぐに身柄拘束、もしくは射殺、海で溺死したと言われています。しかしそんな脱獄不可能、堅牢な監獄から、脱出したといわれているのがジョンとクラレンスのアングリ兄弟、そしてIQ130超といわれたフランク・モリス。
彼らは2年にわたり計画を練り1962年6月11日の夜に決行。それまでに仕事場から盗んだ道具で独房の通気口に穴を開け、外に通じるトンネルを作ることに成功。また海に出た後の手段としてレインコートで浮き輪を作成。そして、見回りに来た看守の目を欺くため自身の髪や粘土、紙くずや穴の掘りかすなどで作った人形をベッドに寝かせダミーとしました。忽然と消えた彼らの捜索はFBIも出動し大規模なものになりましたが、結局未だ行方は分かっていません。
公式な発表は溺死、つまり島外に辿りつけなかったとされています。しかし脱出し溺死した者の遺骨と彼らのDNAで合致したものはなく、アングリ兄弟の母が彼らの脱獄後に筆跡が本人のクリスマスカードを受け取っていたなど、脱出に成功した形跡もあります。この脱獄事件の1年後、アルカトラズは閉鎖しました。
…結果、脱獄犯は捕まって然るべき。しかし、脱獄犯にもそれぞれ個性や言い分があるようで、それもまた魅力的でもあります。フランク・モリスは生きていれば90歳、シャバでどんな思いで償い、生活しているのか、知りたいですがその由もありません。