~カープ カープ カープ 広島 広島カ~プ~
広島東洋カープ、25年ぶりのリーグ優勝おめでとうございます。25年前といえば、千代の富士が引退し、都庁が新宿に移転し、ジュリアナ東京がオープンした年。それらの映像を脳内再生すると概ね画像比率が4:3。地デジ比率ではないというくらい昔のこと。そこで、4:3サイズで蘇る、愛すべきカープの思い出を書いてみようと思います。これを読めば、「だからにわかは…」と迫害されること間違いなしです。
球史に残る伝説『江夏の21球』の真相
79年の日本シリーズ第7戦。カープ対バファローズ戦、この試合に勝利すれば優勝という絶対に負けられない大一番。4対3でカープが1点リードの中、絶対的守護神、江夏豊投手が9回ノーアウト満塁の絶望的ピンチを凌ぎ優勝。この奇跡と見紛うラストイニングに江夏投手が投じた球数が21球でした。手に汗握る熱いゾクゾクするシーンです。
…が、よくよく考えると、ノーアウト満塁にしたのは江夏投手本人なわけです。(ヒット後のエラーがらみの2敬遠)。自分で蒔いた種を自分で収穫したというわけです。3つのアウトを取った最後の10球は素晴らしいものですが。ちなみに2塁ランナーだった近鉄の吹石選手は、後に福山雅治さんの嫁になる吹石一恵さんのお父さんです。
思い出助っ人『ランス』というロマン砲
最強ではなく、思い出に残る助っ人、ランス。87、88年の2年在籍した左の大砲。何が思い出に残るかというと、典型的な「ホームランか三振か」という打者。87年のシーズンは39本塁打でセリーグのタイトルを獲る一方、三振を114喫しリーグワースト。打率もこのシーズン規定打席到達者最低の.218でした。
ちなみにこのシーズン首位打者を獲得したのは同じくカープの正田選手でしたが本塁打は0。つまりこのシーズン、カープは最多&最少本塁打、最高&最低打率の打者を出したことに。とはいえ主に6、7番打者だったランスがいるカープは脅威だったことに間違いはないでしょう。
寡黙な求道者・前田智徳という侍
ケガに泣かされるシーズンも多くありましたが、生涯で2119安打、295本塁打、打率.302は、カープ史に残る名打者。また、センスや振る舞いは高く評価されており、イチロー選手が憧れ、落合さんが「真似をしていいのは前田だけ」と絶賛するほどの天才打者でもありました。そんな前田選手のエピソードを、かいつまんで羅列します。
・理想の打球を追求するあまりバッティング練習で、奇声をあげたりバットを叩き付けたりしていたためコーチから「打撃投手がビビる」と説教を受ける
・高校時代、タイムリーを放ったにも関わらず打球が納得いかなかったためベンチで「俺はもうだめです」と泣き崩れる。ヒットの内容に満足できずショック過ぎて守備につけないことが度々あったという
・前田語録「ヒットはバットの芯でボールを捉えたものだけを言う」
・右足アキレス腱を断裂してからの復帰後、思うような活躍ができないことにいら立ち「いっその事、もう片方も切れてほしい。バランスとれるから」と無茶を言う
・前田語録「前田智徳という打者はもう死にました」「プレーしているのは僕じゃなく、僕の弟です」(アキレス腱断裂後、精彩を欠いていたとき)
・ケーキやアイスクリームが好物
…人見知りで、取り組み方がストイックだったため現役時代は近寄りがたくまさに侍のイメージだった前田選手。引退後は丸くなり、広島のテレビ番組で、かつて「武士さんぽ」という散歩コーナーを持っていました。
他のカープ雑学
・往年の4番打者・小早川選手、88年のキャンプ中、突然の赤痢感染。病院に隔離される
・応援歌「それ行けカープ」の作詞家・有馬三恵子さんは南沙織さんの「17才」、金井克子さんの「他人の関係」なども手掛ける
・レジェンド衣笠選手、愛称「鉄人」は体の頑丈さと、かつて背番号が28だったため『鉄人28号』から
・カープ坊やのお薬手帳がある
・マスコットキャラ「スラィリー」は、グラウンドに入った狼藉者を取り押さえお手柄。その一方、パフォーマンスでセグウェイに乗っていたところ誤ってスタッフを轢く珍事も
“にわか”だって嬉しいぞ!
そもそもにわかで何が悪いのか、と思うわけです。野球は野球。等しく楽しく、等しく感動を与えてくれるのが野球であり御贔屓球団。この勢いでカープにはCS、日本シリーズと栄冠を勝ち取ってもらいたいと考える、3代にわたり生粋のジャイアンツファンの小生でした。