天皇陛下が生前退位のご意向を表明され、2019年1月1日から新しい元号になる可能性が出てきました。そこで、気になった“元号についての疑問”をリサーチしてみました。
誰がどのように決めるのか?
元号は、1979年(昭和54年)に制定された元号法に沿って決められます。
「第1項:元号は、政令で定める。」
「第2項:元号は、皇位の継承があった場合に限り改める(一世一元の制)」
と元号法には書かれてあります。
一世一元は、明治元年に”天皇一人にひとつの元号”にしましょう、と決めたこと。今、”生前退位をどうする?“と議論しているのは、これに反するからなんですね。
「昭和」改元「平成」が決まるまでの流れを簡単に説明すると…
・昭和天皇崩御のあと政府の有識者8名と衆参の正副議長4名が集まり会議。元号の候補は早くから東大の名誉教授などの有識者から候補が届いており、その中から検討
・総理大臣に報告
・全閣僚会議で協議
・臨時閣議
・新天皇に上奏
・公布
「平成」の決め手は?
気になるのは、いくつかの候補からなぜ「平成」が選ばれたのか? ですね。まず、こんな条件があるとか「年号の歴史」(1996年雄山館発行)によると、元号の選定条件は、
(1)国民の理想として相応しいような、よい意味を持つものであること。
(2)漢字2文字であること。
(3)書きやすいこと。
(4)読みやすいこと。
(5)これまでに元号または送り仮名として用いられたものでないこと。
(6)俗用されているものでないこと。
幾つか提案された候補から、「平成(へいせい)」「修文(しゅうぶん)」「生化(せいか)」の3つが残ったそうです。
その際、「修文」と「生化」はローマ字で書くと頭文字が、昭和と同じ「S」になる。世間でプロフィールを書く用紙の生年月日欄に「M(明治)、T(大正)、S(昭和)」と略して表記する場合があるので、これは混乱を招くと考え、 「H(平成)」に決定したと言われています。
ですから、次の元号の頭文字も、おそらくM、T、S、H以外になるでしょう。
元号に関する疑問を調べてみた
Q:なぜ元号はできたのか?
A:中国の文化に習ったもの
古代中国では、皇帝が代わる時や、めでたい出来事があったと時に元号を変えるという習慣があった。 日本最初の元号は、大化の改新の「大化」(645年)、蘇我氏の専横を誅して孝徳天皇が即位した際、“中国を真似て元号を設けましょう”と決めたのだろうと思う。
Q:大化からずっと続いているのか?
A:2度途切れている
孝徳天皇崩御後、667~685年まで元号なし。 686年「朱鳥(すちょう)」復活。しかし約2ヶ月で天武天皇崩御に伴い元号消滅、15年元号なし。 704年、対馬国から金が献上される。これを記録しやすくするため元号復活、 「大宝」が始まる。大宝律令で今後、公文書を残す際は元号を用いると決めた。ここから元号は現代まで続く。
Q:元号はいくつある?
A:231、あるいは、247
1336~1392年までの南北朝時代は、南と北でそれぞれ元号があった。 日本は歴史上、南朝を正統とするので南朝元号のみなら231。 北朝元号は16あるので、それを含めると247になる。
Q:昔はひとつの元号が短かったのはなぜ?
A:良いこと悪いことがあるとコロコロ変えたから
昔は一世一元制じゃなかったので簡単に改元できた。
きっかけはいろいろ。
・天皇即位による改元。77回。
・六十干支の縁起担ぎ 例えば「辛酉」の年は政治的革変が起こりやすいから改元。「甲子」は物事を始めるに良い年なので改元。といった具合。
・ステキなものをもらったから 亀を献上されたから「霊亀(れいき)」「神亀(じんき)」へ。銅を献上されたから「和銅」。
・天災・疫病の発生 大地震を受けての改元は「天慶(てんぎょう)」に始まり「安政」まで21回。異常気象それに伴う疫病・飢餓がきっかけの改元は「応仁」「宝永」「天保」など68回とされている。
Q:期間の最短、最長は?
A:最短「朱鳥(すちょう)」約2ヶ月(686年7月20日~686年9月9日)
最長「昭和(しょうわ)」約64年(1926年12月25日~1989年1月7日)
昔は10年も続かないことのほうが多かった。
Q:天皇が元号を考えていた?
A:おそらく天皇は提出された物に従っていた
鎌倉時代まで改元の主導権は朝廷が握っていたが、室町以降は武家政権が主導権を握ったので、朝廷が武家政権に改元の伺いを立てていたとされる。 江戸時代は幕府から朝廷へ改元を提出していた。ちなみに原案は平安時代から藤原氏の役目だったそうだ。 大政奉還後「明治」改元は、藤原氏と新政府から幾つか案が提出され、天皇がくじ引きで決定。 「大正」と「昭和」改元は、天皇の病状悪化から首相や内閣に委ねられ、枢密院などで審議されて決定。 おそらく天皇自らが考えた元号は、あっても少数だと思われる。
Q:昔の庶民は元号を知っていたのか?
A:永く知らなかったと思われる
そもそも元号は、公式文書に残すための記録用の指標として使っていたので、庶民に知れ渡ることはなかったとされる。 大化がスタートする以前から、日本では「十干十二支(じっかんじゅうにし)」で年を呼んでいた。こんな表を見たことあるはず。
十二支「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」 これを組み合わせた暦のようなもので60種になる。
今年2017年(平成29年)は丁酉(ひのととり)。そんな名称で年を把握していた。
Q:じゃあ、いつから庶民は元号を知っていた?
A:おそらく江戸時代あたりから
江戸時代に入ると証文社会になるので、借金、土地の売買といった契約的なことは証文として記す必要があった。例えば「安政二寅年五月」などと元号から書く。
おそらく、「年号が書かれた暦」も発行されていて、江戸中期には農民の墓碑にも命日が元号から書かれてある。出版物の奥付にも元号が用いられているので、江戸後期には全国的にも知れ渡っていたであろうと推測される。
まだまだあるけれど・・・
ひとつ疑問を解くと、また疑問が湧くのですが、ひとまずここまで。 今後、年号の話題でトークを展開することもあるでしょうから、話のネタにぜひどうぞ。