2016年は文豪、夏目漱石の没後100周年メモリアルイヤー。さらに漱石は50歳という若さで亡くなったので、本日、2月9日で生誕150年を迎えます!
あまりにキリの良い数字に驚き。そこで夏目漱石について調べてみました。
ざっくりと、夏目漱石の生い立ち紹介
1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年12月9日。
本名は夏目金之助。
幼少期に里子(後に養子)に出されるなど、家を転々とし複雑な家庭環境で過ごします。
17歳で大学予備門(第一高等中学)に入学。そこで正岡子規に出会い友情を育みます。
成績はぴか一。英語は特に優れていたため、23歳で東京帝国大学英文学科へ入学。
卒業後は、日本各地の中学・高校へ英語教師として赴任します。
【とてもナイーブな人だった】
33歳のとき、文部省から英文学研究のため英国留学を命じられ渡英。
しかし、環境に馴染めず神経衰弱におちいり3年足らずで帰国。
小泉八雲の後任として東京帝国大学英文科講師となります。
ところが彼の講義は生徒に不評で、再び神経を衰弱させる日々に……。
【エリートの道を棄て小説家へ】
当時、子規の遺志を継いで『ホトトギス』を経営していた 高浜虚子(たかはまきょし) は、そんな漱石に小説を書くようにすすめ、漱石は1905年、『吾輩は猫である』を発表し大評判となります。
以降、彼は帝大教授というエリートコースを棄て、朝日新聞社に転職。
小説家としての道を歩み『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。ベストセラー作家に。大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し、1916年、50歳という年齢で亡くなります。
ウソかホントか!?夏目漱石の噂
夏目漱石に関する数々の噂の中で気になるものをピックアップしてみました。
【夏目漱石の飼っていた猫の名前は“ねこ”】
「吾輩は猫である。名前はまだない」という、冒頭の文はあまりにも有名ですが、そのモデルになった猫には生涯名前がなかったそうです。
小説では、名前は“まだ”ないと言いつつ、結局名前をつけてあげなかったというから猫が少しかわいそうな気もします。
【l love youを“月が綺麗ですね”と訳した】
漱石の教え子が、“I LOVE YOU”を“我君を愛す”と訳した際、
「日本人はそんなことを言わない。 月が綺麗ですね、とでもしておきなさい」と言ったという逸話。
結構有名な話ですが、実はこの話に関する正確な出所はありません。夏目漱石という人だからこそ生まれた、エピソードと言えます。
もしこの話が本当だったら、かなりロマンチックな人ですね。
【樋口一葉と縁談話があった?】
こちらも有名なエピソードらしいのですが、確たる証拠はありません。
漱石の父親は当時、警視庁に勤めており一葉の父親の上司でした。
明治20(1887年)12月に一葉の兄、樋口泉太郎の葬儀では「夏目直克(漱石の父親)から香典50銭」という記録があり接点はあったようです。実現していれば、夫婦でお札になっていたかも!?
夏目漱石の脳は東京大学に保管されている
日本人初の東京帝国大学(東京大学)英文科講師であった漱石の脳は、東京大学医学部にホルマリン漬けで保存されています。(ちなみに、あの忠犬ハチ公の臓器や、阿部貞事件で切り取られてしまった“男性自身”なんかも保存されてるそうです。)東日本大震災復興支援イベントのFREEDOMMUNE A NEW ZERO 2012では、エキジビジョンとしてその脳が展示され話題になりました。
執筆に行き詰まると鼻毛を並べる癖があった
こちらは、夏目漱石の変人エピソードです。原稿の中には、短い鼻毛が綺麗に一列に並んでいるものがたくさん残っていたそうです。
執筆に行き詰まると、無意識に鼻毛を抜く癖があったそうです。しかも、毛根部分をノリのようにくっつけていたというから、驚きです。
意外にも東京出身であった!
夏目漱石というと、『坊ちゃん』のイメージから、愛媛県松山市生まれと勘違いしている人もいるのではないでしょうか?
坊ちゃんを読んでいない人であればなおさらですが、あの話は漱石が愛媛県に教師として赴任した時の体験をもとに書いた小説なので、生まれた時から愛媛県にいたわけではありません。
牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)に生まで、東京にゆかりの深い人物です。かつて漱石が生まれた家があった場所ということで、現在そこは『夏目坂通り』と呼ばれています。
< 取材・文 / 山﨑恵輔 >