スケートボードの世界には、コンテストとは別に映像で自分を表現するスケーターが、数多く存在し、中でも個人の滑りをフィーチャーして、まとめた映像はフルパートと呼ばれ、スケーターとして認められる為には、このフルパートがとても重要な存在となっている。
1980年代から2000年代にかけて、スケートビデオが全盛期を迎え、現代はDVDやネットに代わりながらも、数えきれない量のスケート映像がこの世に生まれ、スケートボードシーンを作り続けている。
そんなスケート映像で自分を表現するスケーター達にとって、欠かせない存在なのが、スケートボードの映像を専門に撮影する“フィルマー”という存在。
日本では海外と違って、まだまだ認知が低い分野ではあるが、世界的な映画監督スパイク・ジョーンズや昨年、日本でも話題になったドキュメンタリー映画「行き止まりの世界に生まれて」の監督ビン・リューも、元々はスケートボードのフィルマーだった。
そんな、スケートボード界のキーマンでもあるフィルマーとは、どういうものなのかを探るべく、今回は日本を代表する若手フィルマーの1人、厚東賢哉にこれまでの道のりや、どういった経緯でフィルマーになっていったのかなどを聞いてみた。
【来年でフィルマー歴10年】
——自己紹介をお願いします
厚東賢哉、厚いに東でコトウと読みます。
地元の山口県に同じ地名があるんですが、たぶんそこから来てるんだと思います。
今年で32歳、スケートボードは高校2年生の4月から始めたので、今年の4月でスケート歴15年ですね。
——フィルマー歴は?
ちょうど9年くらいなんで、来年で10年ですね。
——ロン毛へのこだわりは?
東京来る前からロン毛だったんすよ、ロン毛歴だと7年くらいかな。
美容院行くのがめんどくさい、だから伸びる。
伸ばしてるんじゃなくて、切ってないんですよ。
それとロン毛って特徴的じゃないですか、だから今切ったら特徴を捨てるみたいなもんですよ。自分の武器を一つ捨てるみたいな。
だけど、こだわりは無いっす。トリートメントはしないし、家にあるシャンプーも一番安いノンシリコンのやつだし、今日運動してねーなぁっていう日は、お湯で流すだけだし。
——スケートボードをはじめたきっかけは?
学生時代バスケ部だったんですけど、部活が暇だったから。
【これがタイミングだ!】
※ぐんぐんチャンネルを運営する、スケートボードYoutuberぐんそーと、宮下公園スケートパークでのスクール終わりでスケート談義。
——東京に出てきたのはいつから?きっかけは?
25歳の時ですね。
地元の山口県で正社員として働いていたんですけど、ある時自分の10年後を想像して、「10年後も同じ事してたらクソつまんねぇ人生だな」って思って、それだったらもう死んだも同然だから、やりたい事やろうと思ってたんです。
それで東京に出てくるまでに色々あったんですが、元々地元でもフィルミングはしていて、映像をYouTubeにもちょこちょこアップしたりしつつ、山口県のスケートを盛り上げたかったので、大会とか開催してたんですよ。
山口県は積極的なスケーターが、マジで自分1人しかいなかったんで「大会出る!」って言ってもついてくる奴いねぇから、県外の大会にも1人で乗り込んでました。
現地着いても完全ドアウェイですよ、まず「エントリーどこ!?」みたいな(笑)
そこから、歳が近そうな奴に「ここのローカルですか?」とか話しかけていって、友達作ったりして、そいつらを撮影したりしてました。
当時、YouTubeで「すげーカッケーなぁ」って思って、チェックしてたフィルマーで、IFOの映像も撮ってた、TASSAさん(NP WORKS)という人がいるんですけど、ある日広島にIFOのツアーで中島壮一郎さんや、高村洋喜くんとか佐川海斗とかが、広島に来るっていう情報をつかんで「フィルマーのTASSAさんも来るはず」って思ったオレは、1人で広島に車飛ばしてTASSAさんに会いに行ったんですよ。
それで広島で見つけて、話しかけて世間話しているうちに、トランスワールドジャパンのローカルタンジェントっていうコーナー(北は北海道から南は沖縄まで、各スケボーローカルニュースが掲載されていた)の話になって「山口県は今まで一度も、ローカルタンジェントに載った事がないんですよ」って話したら、TASSAさんが「じゃあトランスの人に話しておくよ」って感じになって、「マジですか!?、じゃあオレ山口県の担当やります」って流れで、本当にローカルタンジェントの、山口県担当をやらせてもらえる事になったんですよ。
その流れで、ローカルタンジェント福岡県を担当していた清水潤君を紹介してもらって、当時面識はなかったけど、アドバイスしてもらおうと思って電話してたら、潤君から「今度、横浜でLESQUE(レスケ)の試写会があるから来なよ」って言われて。
たぶん、オレが本当に山口から行くとは思ってなかったんでしょうけど、オレは行ったんすよ。初めての有給休暇を使って、横浜で開催されたインタースタイルとレスケの試写会に。
現地着いたら「やべー!!プロいる!!」みたいな。
「池田幸太いる!戸枝義明いる!堀米雄斗もいるじゃん!!」って、ただのファンっすよね。
そのまま、レスケの試写会にも行ったんですけど、そこでもビックリ「試写会ってこんなに盛り上がるんだ!」って。
そもそも、山口県に比べてスケーターの多さにびっくりして。
その時にタイミングもいいし、東京に引っ越そうかなって思ったんですよ。
その後に、親戚が東京で結婚式やるってなって、家族で東京に行くんですけど、自由時間の時に田舎者のオレはとりあえず「FATBROS(ファットブロス)っしょ!」ってなって、ファットブロス行って、店長の萩原(明則)さんと話してたら「(中野駅の)逆の出口にFESNラボって店もあるよ」って教えてもらって。
その時は森田(貴宏)さんじゃなくて、ジミーさんって店長がいて、客も他にいなかったんで3時間くらい2人で話して、その時に「東京出たいんすけど、迷ってるんすよ」みたいな話をしたら「来なよ!うちにちょっとだけ住んだらいいじゃん」「マジッすか!」ってなって、初対面だったけど電話番号交換したんです。
それで、親戚の結婚式が終わって山口帰ってすぐに、5年間続けた仕事をパッと辞めました。
「これがタイミングだ!」って。
——FESNのジミーさんのおかげで吹っ切れた?
そうっすね。
仕事辞めて、ジミーさんに「仕事辞めたんで、○○日に行っていいっすか?」って電話したら「え!?マジで!!来るの!?いいよ!」みたいな感じで泊めてくれて(笑)
そこからジミーさんの家に泊まるんですけど、「中野からどこに行こうかな」といろいろ考えていた時に、自分の数少ない人脈の中でLOCAL-CLIPS(ローカルクリップ)の編集長のアツさんっていう人がいたんですよ。
前に“映像をあげてるフィルマーがいます”って感じでローカルクリップがピックアップしてくれた事があって、その繋がりで。
それで、アツさんと一緒に飲みに行ったんですけど、その場に相模原の小山公園スケートパークのローカルで、フィルマーのオザキさんていう人がいて、オザキさんに「小山公園に行ってみたらいいよ」って言われたんで行ってみたら…。
とりあえず、田舎者のオレからしたら想像できないくらい、みんな上手いんすよ。「なんだコイツら!!!」みたいな。
これはもう、他の人には絶対にわからない感覚ですよ。
——山口県では上手かった?
はい!なんでかって言うと、スケーターがめちゃくちゃ少なかったから。
——山口のサンフランシスコ(周陽公園)は?
そこにもスケーターいなかったっすから。
——逆にサンフランシスコ(周陽公園)が今でも滑れる理由は、スケーターがいなかったからかもね。それで小山公園ではどうだったの?
小山でただ、スケートだけしててもつまんねぇなって思って、とりあえず話しかけるっすよね。
それで1番最初に話しかけた奴が、JOYNTの西村亮太だったんすよ。
明らかにローカルっぽかったから「ここのローカルっすか?」って、年下だけど敬語で話しかけて。
——おもしろいね(笑)
必死っすからね!(笑)
ちなみに当時、中浦大輔(名古屋を代表するスケーターの1人で、キセキのナカウラとも呼ばれている)もローカルだったんすよ、あいつその時は橋本に住んでて。
それで「オレ、カメラ持ってんすよ」って話したら、あいつ特有のノリで「カメラ持ってんなら撮ってよ!」みたいな。
——キセキのノリで。
そう、キセキのノリで。
で、キセキの出会いを果たした後、撮影に行って映像をまとめて上げたりして、5日間くらい大輔ん家に泊まったかな。
その間に、小山カップがあったんですけど、その時の小山カップがとんでもなくて…。
決勝が堀米雄斗VS池田大亮だったんすよ。
もうオレは衝撃っすよ。衝撃に衝撃を重ねて、さらに衝撃みたいな。
「こんな奴らがこの世に存在するのか!?」「実は日本ってヤバいんじゃないか」と。
そしてこのパークヤベェ!みたいな。
その衝撃を忘れられぬまま、いったん地元山口県に帰ったんですけど、マジで小山公園が超衝撃的だったから、そこら辺を拠点にしようと思って相模原に引っ越したんです。
とりあえず、山口いる間に貯金はめっちゃしてたんで、相模原に引っ越ししてからは「いける所までいこう」と思って、イベントや試写会とか情報入って来たやつは全部行きまくったんすよ。
ジミーさん家に泊まってた時に、田町で出会った(境)基州君とイベントで再会したり、本当にいろんな人と知り合って、いろんな事があったんですけど、その中でも一番大きかったのが森中一誠との出会い。
ある日、キセキの方の大輔から「今、一誠コッチに来てるっぽいよ、レスケハウスにいるっぽい」って話を聞いて、その時は自分もレスケハウスに何回か行ったりしてて、イベントの撮影したり、レスケ関係の人とも知り合いだったので、その流れで森中一誠と出会う事になったんですけど、それが後のL.Aトリップに繋がっていくんです。
※森中一誠も深く関わったGIRL×KYOTOデッキが厚東宅には飾られている(左から2番目)。
【一番記憶に残っているのはL.Aのベルモントハイスクール】
——L.Aに行く事になった流れを教えて。
オレは元々、一誠のファンでめっちゃ撮りたかったんですけど、ある日すでに一誠と友達だった大輔から「一誠撮影したいんでしょ?それなら撮ってあげてよ」みたいな感じで言われたんです。
それで一誠とちょこちょこ一緒に動くようになったんですけど、会って3回目くらいで「来年L.A行くんやけど、一緒に行く?」って言われて、5秒悩んで「行く!」って。
それで3ヶ月L.A行く事になったんです。
——トランスワールドジャパンでも取り上げられた企画だよね。元々3ヶ月間でフッテージ撮ってきてっていう依頼だったの?
いや、違います。
自分たちで金出してL.A行って、ハンパない量撮ったんで「これコンテンツにならないですか?」ってトランスに話したら「なるよ!すげー量撮ったね」って。
——じゃあ、最初の目的はただとにかくフッテージを撮るってだけで行ったの?
かますっしょ!!って、目的はかます!!みたいな。
それが東京に来て、次の年の2月。
今思うとめちゃくちゃっすけど、一生の思い出になったっすね。
——L.Aは誰が行こうって言い出したの?
当時、森中一誠、高山零央、池慧野巨(いけ・けやき)で“チーム立ち漕ぎ”っていうチームを作ってて、その3人で行くつもりだったらしいんですけど「フィルマーおった方がいいやろ」って事でオレが入りました。
ちなみに自分はレオには数回しか会ってないし、ケヤキに至っては出発前日にNQSスケートパークで初めて会ったっていう(笑)
——3ヶ月後、4人はどうなった?
戦友みたいな感じかな(笑)
——思い出深かった撮影は?
1番記憶に残ってるのが、ベルモントハイスクールでの一誠のレーザーフリップのライン。
Yeah Right!(GIRL Skateboardsから2003年にリリースされた伝説的なスケートビデオ)で、ポール・ロドリゲスがノーリートレフリップやってたり、ジーノ・イアヌッチが180でまくられて板が吹っ飛んでる、あの有名な9段ステア。
そこに4日~5日くらい通って、キックアウトが基本無いので、1回行ったら多くて200回くらい打つんですよ。全部で600カット以上撮りました、今までの撮影で1番かかったっすね。
そもそも、一誠はフラットでレーザーフリップが出来ないんですよ。
ステアでしか出来ないけど、それでも9段に突っ込んでいったという。
最終日はあっさりメイクしてくれたんですけど…まぁL.Aではいろいろあって、スッキリしない部分もあったのも含めて、思い出深いですね。
レーザーフリップの映像はVHS MAGのPICK UPSコーナーのNIXONのパートで使われてます。
森中一誠-PICK UP[VHSMAG]
YouTube【https://youtu.be/C76zSY1gLUQ】
ちなみに一誠との撮影でよくあるのが、完璧なメイクした後にあいつは「もう一回」とか言うんですよ、オレの中では「いやいやいや、これメイクやろ!!逆にこれ以上あんの!?」っていうやつでも、あいつは「もう一回」って言うんですよ。
それで「いやこれメイクだから!あと何回やってもいいけど、これメイクだから!」って言って、結局後から見て「あ、これええやん」っていうのが何回もあります(笑)
——完璧主義なんだね。話変わるけど、以前天王洲アイルにあったスケートパークNike SB dojoのスタッフになった経緯も、L.Aトリップに関係してるんだよね?
L.Aに行った時に、今はNike SBのマネージャーをしてて、当時ドゥインドル(オールモスト、ブラインド、ダークスター、エンジョイなどを取り扱うディストリビューション)で働いていたニノ(ニノ・モスカルディ)と出会って友達になったんですよ。
そしてある日、ナイキの室内パークが出来るという情報を聞いたんですけど、その時オレは東京でどういう生活をしようかって、迷ってた時だったんでNikeのチームマネージャーになっていたニノにDMを送ったんですよ。
「オレ働くわ!オレしかいないっしょ」って感じでゴリ押ししたら、その時は「何人か候補がいて、その中に入ってるからまた連絡するよ」って感じで言われて、後日正式に採用してもらいましたね。
——行動力がすごい!ではここで、メイン(トリックをする方)のデッキのセッティングを教えてください。
ウィールは今までで、一番調子良かったSPITFIRE(スピットファイヤー)。
サイズは52mmで、固さは101Aで硬いやつなんですけど、99Aに変えたいですね。
最近トランジションを結構滑ってるんで、カービングした時にめっちゃ滑るんですよ。
だから99Aの柔らからい方が、いいかなって。
サイズもスピードをつけたいから、2ミリくらい大きくしたい。
形はコニカルシェイプ。
なんでコニカルかというと、路面が粗くても横ブレが少ないのと、ランプのコーピングのハマりが違うんすよ。5-0グラインドした時とか、かっちりハマるし気持ちよさが違う。
フラットだと重く感じたり、回しにくいって言う人もいるみたいなんですけど。
ベアリングはBONES SWISS(ボーンズスイス)一択。
理由は一番長持ちするから、今のも1年半くらい使ってるっすね。
トラックはFILM(フィルム)トラック。
元々、CLICHÉ(クリシェ)をやってたJEREMIE DACLIN (ジェレミー・ダクリン) が始めたヨーロッパのブランドで、ライダーがめっちゃマニアックだけど、みんな好きなライダーなんです。
LEO VALLS(レオ・ヴァルス)とか、日本にもゆかりのあるInstagramネームがローラーサーファーのBEN KOPPL(ベン・コップル)とか、ELLEMENT(エレメント)のVICTOR CASCARIGNY(ビクター・カスカリニー)っていうワンフット大好きな奴がライダーです。
変えた当時は「グニャグニャ過ぎるな」って思ったんですけど、最近アールとかトランジション系をめっちゃ練習してるから、グニャグニャの方が調子良いんすよ。
もう、フラットでパンピング出来るくらい。
高さはインディー(INDEPENDENT TRUCKS)のスタンダードと同じくらいですね。
あと安いんで、ショップでも勧めやすいっす。
自分が乗ってるのはホローなんですけど、ホローライトでも7200円でめっちゃ安いんすよ。なんか営業トークみたいになってるんですけど、実際お手頃です。
デッキは新横浜の団体Chees(チース)のチュッパチャップスデッキ。
これはコラボデッキとかじゃなくて、チースが前からチュッパチャップスからサポートされてて、この際「デッキを作ろう」ってなって、限定で作られたやつなんです。
プレスがGENERATOR(ジェネレーター)っていう、アメリカのプレス工場なので、かなり(品質は)いいやつです。
サイズは8インチで「ちょっと細いかな」って思うけど、オレはフリップとかトレフリップが出来なくなったらマジで嫌なんで、それが出来る最大限の太さ。
トランジションとかやってたら「太い方がいい」って言われるんですけど、軽いし自分は8インチがベストっすね。
【あの時楽しく生きたかったから、今楽しく生きてる】
——最後に、東京出てきた当初は目標ってあった?今後の展望とかはある?
今後の展望は無いんですよ。
オレの性格上、目標とか決めたらやる気無くしたり、近道したくなるから。
“自分が楽しいことをする”っていうのが自分のスタイルですね。
スケートショップで働いて、スケートパークで働いて、スクールもやって、映像を撮って自分も滑るっていうのが今の自分。
渋谷で働いていたら、いろんな話が来るかもしれないし、スクールやってたらノウハウを知れる。
イベントとかも開きたいし、自分で服とかも作れるようになったら力になるし、そのうち自分のブランドも出来るかもしれない。
いつか撮るだけじゃなくて、撮られる側になるかもしれない。
今はいろんな“楽しい”をとりあえずしてて、その先がどうなるかもわからないから、だから目標はないっす。
そんなんだから、東京出てきた頃もとにかくイベントに行きまくって、楽しく生きたいってだけだった。
実は山口で会社勤めしてた時、一回鬱になりかけたんです。
ちっちゃい会社で営業やってたんですけど、社長の下で働いててちょっと電話取るの遅かったら「今取るの遅かったよね?辞めさせるぞ」とか、社長と車で2人の時に「こんなのも出来ないんだったら辞めてもらってもいいんだよ」とか言われて、今思うとパワハラだったんですけど、その時は電話恐怖症になったっすね(笑)
電話かかってきたらビクッ!みたいな。
それである日、社長が出勤してきたら、気持ち悪くなってトイレでゲロ吐いちゃって「もう無理っ!」てなって、泣きながら社長に「すいません、営業無理です」って言ったんです。
そしたら製造の部署に変わって、そのタイミングでフィルミングも始めたんです。
スケボーしてなかったら、マジで鬱になってたかもしれない(笑)
あの時つらかったから、今は何があっても全然つらくない。
あの時楽しく生きたかったから、今楽しく生きてる。
【不自由で自由な乗り物】
そもそも、スケートボードが楽しいのは何故なのか?
自分は正直、スケートボードほど難しくて不自由な乗り物は無いと思うし、スケートボードほど、無限に広がる自由な発想の乗り物も無いと思う。
SNSなどは自由に発信出来るツールではあるけれど、逆に自由さに縛られてしまっているなぁと思う時がある。
スケートボードはストリートでは嫌われてて、めちゃくちゃ不自由に感じるけれど、それでもスケートボードが楽しいのは、何にも縛られない自由を感じる事が出来るから。
コトー君がインタビューの最後にポツリと言った「あの時楽しく生きたかったから、今楽しく生きてる」この言葉にも、何にも縛られない純粋さを感じた。
自由に生きるのには、もちろん苦労やリスクが付きまとうけれど、その中で何かを成し遂げた時には、他では味わえない達成感がある。
スケートボードも、ステアやハンドレールなどに挑むのには、まず恐怖心を乗り越え、たくさんの失敗を重ねる事によって、初めてメイクする達成感を味わえる。
さらに仲間と一緒なら、それは何倍にもなる。
スケートボードには、人生に必要なことがたくさん詰まっている。
【厚東賢哉】
スケートボードフィルマーとして活動する傍ら、Instant渋谷店で働き、新横浜スケートパークではスタッフ兼スクール講師、宮下公園スケートパークでもスケートスクールの講師を務めている。
【主な映像作品(YouTube)】
koto clip
【https://youtube.com/playlist?list=PLgS2oxr5tuzOAzZochDrFsnZyCIRNCZYO】
Roller sports club
【https://youtube.com/playlist?list=PLgS2oxr5tuzNYKGvlqIoW9gdrpQrVgS1D】
YOUNG LOVE ロサンゼルス3ヶ月のスケボー旅行記
YouTube【https://youtu.be/_yfV1Anc-pE】
【写真・文 小嶋 勝美】
スケートボードを趣味としており、ライターとしてスケートボード関連の記事を執筆。
約10年間芸人として活動後、現在は放送作家としても活動中。