甲子園を目指してやりきった後の社会人で初めての挫折を味わう。その後、家業を継ぐ決断をした株式会社Re.TSUKUL 代表取締役 福原 巧太さんの人生の歩みとは

2022/02/07
マガジンサミット編集部

今回お話しを伺ったのは建築業を中心にコインランドリー事業など幅広く事業を行っている株式会社Re.TSUKULの代表取締役 福原 巧太さん。家業を継ぎ、今に至るまでの経緯を聞いた。

リフォーム、新築などの建設業を行っている株式会社Re.TSUKUL。現在、注力して動いているのは令和元年房総半島台風の災害復興事業の工事だ。また建築事業がメインではあるが、コインランドリー事業、不動産賃貸事業なども行い多岐に渡る。更には社としてまちづくりをしていこうとイベントを開催したり災害復興のまちおこしを行ったりもしている。

高校時代は甲子園を目指していて野球に没頭していた福原氏。元々、平成5年に福原氏の父が有限会社福原建築を創業。福原氏はお姉さん2人の次に生まれた待望の男児だったが、当時は建築業に全く興味がなかったと話す。そして中学時代の野球仲間の死もあり、その想いを継いで野球一本で高校に進み、甲子園を目指すことになった。努力も実り、甲子園出場、ベスト4の成績を残した。その後、夢を叶えて野球をやり切ったと感じた福原氏は将来を考え始める。高校を出た後は専門学校に通って建築の知識や建築士としての資格を得た。その後は建築関連の会社に入社。いざ入るとやりたかった仕事と異なり、仕事にのめり込むことができなかった。そしてそれが初めての挫折になったと福原氏は語る。その後、仕事を辞めてやりたいことを探している時に様々な職種にチャレンジしてみようと、アルバイトなどで引越し屋やバーの店員などもやったと言う。ただ、その生活をずっと続けるわけにもいかないと実家に帰る選択肢が生まれ、23歳の時に実家がある千葉の南房総の方に住居を移した。

帰ってきてから家業である大工を学び、知り、その難しさや厳しさ、職人の大変さを身にしみて感じたと福原氏は話す。その後は5年間はみっちりと大工を学び、ちょっとずつ物づくりが楽しくなってきた。父からの代替えを意識し始め28歳頃に現場を離れて役職をつけてもらい、社会人として学んできたことを活かして家業の経営や経理を見ることとなった。実際に現場を離れて経営に回ることで、戦術などを考える経営が好きだったと実感したと言う。その後も約5年間、両親と共に実家の経営に携わっていたが、多忙を極めていたこともり2019年に福原氏が病気になってしまう。その後、回復してこれから頑張ろうと思っていた時に2019年の9月に房総半島で台風が起こった。そんな経緯から災害という困難にぶつかった福原氏。次回からは復興支援についてや事業の強みなどについて話を聞いた。

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